こどもたちのエッセー  (1996年春)
 

小6 男子 (大阪市平野区)  

 地震で目が覚めた。ぼくの所はあまりひどくなかったが、TVを見ると神戸がつぶれていた。後で行って見たら、だいぶ元に戻っていた。
 垂水のお婆ちゃんの家にはヒビが入り、風呂場のタイルが割れ、タンスがふっ飛ばされたそうだが、お婆ちゃんは別の部屋で寝ていたので無事だったそうだ。
 一方、今川のお婆ちゃんの家は瓦が落ちたので、屋根の修理屋になおしてもらったそうだ。

 
高3 男子 (西宮市)

地震の出来事  
 1月17日午前5時46分に地震が起こった。今まで地震がなかった近畿地方に震度7が起こると思わなかった。
 ぼくは家具の下じきになったが少しのけがで助かった。死ぬかと思った。家族は家具の下じきになったが、みんな助かった。少しの間体が震えて止まらなかった。
 近所の人達が無事か父と一緒に回わった。みんな無事だった。少し落ちついて建物が壊れているのを見てびっくりした。余震がこわいので集会所に避難した。
 3日後に親戚の家に避難した。2日目に高熱が何日か続き大変な思いをした。3週間後学校に行く事になったが通学が大変だった。2月下旬にガスも水道も使えるようになったので家へ帰った。
 今回の地震でいろんな人に助けてもらった。この事は一生忘れないでぼくもいつか恩返ししたい。
 

高1 女子 (神戸市須磨区)  

 私は家の中でいろいろなたいけんをしました。
 朝方、たてゆれとよこゆれとゆれました。パッと目がさめた時オルガンが前に出たりせんぷうきが落ってたり戸をあけてもなかなかあけられなかったです。そして「お母さんお母さん」って大きな声をあげたらお母さんが来て「Kちゃんまっとき、今からたすけに行くからね」っていった時とてもうれしかったです。
 ゆれがおさまった時一かいへいったら台所がぐちゃぐちゃでした。本だなはたおれたし食器だなはたおれておまけにおさらがわれていました。朝食たべてる時鳥がざわめいているなあと思ってまどを開けたら近くで火事でした。こわかったでした。もうこんな大きなじしんなんかきてほしくないと思います。

 

小6 男子 (神戸市東灘区)  

 今日じしんがあって6:00にきた。しんど7がきてうしろの家がたおれてきた。おとうさんはガラスで手をきった。くつしたを2まいはいて、どあをとおって、かいだんをおりてくつはいて外にでた。けむりのにおいがしておどろいた。そらが赤かった。
 お母さんとともだちと子どもたちみんなで、東なだ小学校にいってねた。ここでもじしんがあって、みんなびっくりした、こわかった。ぼくはもうじしんなんかおこるはずなかったとおもったのに、ぼくのともだちのIくんがしんだ。、いやだったし、家がこわれたからKにうつった。ともだちとわかれたからいやだった。すきな先生とわかれるからつらい。S先生です。
 こっちの学校はあんましすきじゃない、でもがんばってやってると8月1日にキャンプがあった。もうじしんきてほしくない。

 

小6 男子 (西宮市)

じしん  

 1月17日にじしんがありました。じしんでゆれたときぜんぜんわからなかったです。いえがあぶないので、しゅうかいじょでねていました。
 水をはこぶのがつらいからともだちに2月1日に学校がありました。2月にエレベータがうごいていたのでたすかりました。

 

中2 男子 (神戸市東灘区)  

 僕が寝ていたら本がどっと落ちてきました。魚つりの道具が倒れてきました。頭に本が落ちてきました。机の蛍光灯が消えました。家ががたがたゆれました。「お母さん」と叫びました。お母さんが「下りてきたらだめよ」と大きな声で言いました。
 少しして、お父さんとお母さんが懐中電灯をつけて二階に上がってきました。また、ぐらぐらゆれました。フトンをかぶって机の下にもぐりました。僕はすごくこわかった。がたがたふるえました。白がワンワンとほえました。
 明るくなったのでクラウンに乗って岡本のおばあちゃんの家を見に行くとき、甲南大学はひびだらけでした。家はグチャグチャになっていました。お母さんが泣き出しました。僕はつぶれた家を見てこわかった。
 岡本のおじいちゃんおばあちゃんは無事でした。家もこわれていませんでした。電気は次ぎの日ついたけど水道もガスも止まってしまいました。ポリタンクの水を家の中に持って入るのを手伝いました。

 

中1 男子 (西宮市)  

 午前五時四十六分に震度7の地震が来た時、ぼくはもう起きていた。起きた時、いきなりドーンとしてミシミシと家中がゆれた。食器が割れる音がした。ぼくはふとんの中にかくれていた。そして30秒ぐらいはゆれていた。そしてゆれが終わったらみんなが起きていた。
 家中は食器だなの所がバラバラでタンスや本だながたおれていました。明るくなってからニュースを見ていたら阪神の住吉駅の近くが火事になっていました。そして午後から三かいくらい停電になりました。ニュースを見てる時余震がくると上にお知らせが出ました。それでぼくはびっくりしました。そして長田区が一日中ずーっと火事になっていました。
 そして次の日に水くみに行きました。そして場所は満地谷まで行きました。そして大変でした。そしてし次の日に静岡に行きました。最初は阪急の西宮北口までいって次に梅田まで行って次にJRで大阪から京都まで行って次に新幹線にのりました。

 

中1 男子 (大阪市旭区)  

 今年、京阪神に大被害をもたらした。阪神・淡路大震災が、一九九五年一月一七日、五時四六分に僕の家でもベッドがゆれましたが、一方神戸では長田の方で大火の出が、発生されました。そして火の手がおさまった時は、まるで紛争が行なわれたあとのような焼け野原に神戸の大都市は一転して田舎みたいのようでした。もちろん鉄道網もマヒしました。そして高速網もストップしました。そして繁華街三宮も大きな打撃をうけました。
 図書館で借りた本にものってた言葉どおり巨大地震の予測は的中した。戦後最大級の被害をだした今回の大地震死者も五千人をうわまわる、まさに歴史に残る、二十世紀第二の大きな地震でした。
 これからの日本の課題はまず耐震設備の整った建築物を作っていかなければならない。最低強震でもびくともしない建物をどんどん作っていかなければ、ならないのである。
 今回の地震は悲惨な結果になった。僕も心にぐさっと連ぬきました。

 

高1 男子 (西宮市)  

 大きなゆれで目がさめるとすぐに300冊近くの本や大切な阪神グッズが床の上に山づみされた。何がおきたか知らん。“だいじょうぶか”と聞こえた。“う〜ん”とだけ言った。
 ガス臭い。2階からおりる。門がひらかないのでよじ登る。となりのブロック塀が倒れている。広い道に出るとぺしゃんこの家が3、4、5…と見られる。地震だって! 懐中電灯を持ってひとまわり、次に自転車にのって出てみる。
 Mのマンションからけむりが出ている。Mの家は7階だから大丈夫みたい。さらに10m南に行くと阪急の線路が道に落ちている。道路はでこぼこ家はグチャグチャ、ヤバイと思う。
 家に帰るとA、Bが見舞ってくれた。この時、C君がタンスの下から出られないと聞いた。すぐ避難勧告が出たので大社小学校へ行く。あれよあれよというまに2千人もの人がくる。店の倉庫から食料を提供してくれる人、米の出せる人と食料調達している。すごい量と思ったが、おにぎり1個とバナナしかあたらない。おなかはすかない。両親は職員室で対策本部にいる。夕方から死んだ人がくる。白い足に泥がついている。線香のにおいがする。
 夜になってお兄ちゃんが姫路からバイクでくる。三宮、長田はひどい。そごうもこわれていると聞いた。電話がかからないので心配したそうだ。夜遅くカイロ、水と毛布と救援物資が着く。夜中も作業している。気になるねむれない。次の日も救出作業と食料確保の作業が続く。水は貯水池まで車に乗っていく。(手伝う)友達も死んだ。つらいと思う。
 3日目、家を見に行った帰りに犬にかまれる。消毒だけしてもらう。おばあちゃんのそばにいるように言われたが色々なことが気になる。夜中に医療班が来た。7針ぬった。楽になり眠れた。
 次の朝、新聞をくばった。まだ手や顔は洗えない。ぼくはキャンプをしている気分になってきた。はじめて長野から豚汁の焚き出し。おいしかった。泣いて食べる人もいた。やっと火葬場に火が入った。Dさん姉妹が火葬された。簡単に急がされた。
 高槻に引っ越しが決まった。31日より学校が始まった。卒業まで通学する。2時間はかかるかと思ったが、とても、時間内についたことはない。昼食は小学校で焚き出しを食べさせてもらう。夕方までボランティア(?)をして帰った。こんな生活が3月まで続いた。卒業祝いは避難所でA、Bとしてもらった。