8. 真珠湾攻撃

 『大本営陸海軍部午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と
戦闘状態に入れり。』昭和16年12月8日朝、日本国民はラジオから流れる臨時ニュースに
聞き入っていた。
 「新高山登レ 一二〇八」、ハワイ攻撃の暗号電報が発信されたのは12月2日のことで
あった。その前日の御前会議では既に開戦やむなしの決定がなされていた。
 御前会議に先立つ11月26日午前6時、南千島の択捉(エトロフ)島の単冠(ヒトカップ)
湾から赤城・加賀をはじめとする航空母艦6隻を擁した計32隻からなる日本海軍の機動部
隊が密かに真珠湾を目指していた。
 ハワイ時間12月7日日曜日午前7時49分、オアフ島の真珠湾に停泊していた米太平洋艦
隊は不意を付かれ、日本海軍機動部隊の航空母艦から発進した183機の日本海軍機により
その主力戦艦の殆どを壊滅に追い込まれたが、湾外にいた航空母艦は生き残った。(日本
軍は米太平洋艦隊の戦艦4隻を撃沈、4隻を撃破したが、うち6隻は後に引き上げられ、修
復後戦列に復帰した。)
 この戦争は開戦2日目に「大東亜戦争」と命名され、12月10日には東京後楽園球場に
於いて東京の新聞社、通信社計8社が主催する「米英撃滅国民大会」が開かれた。兎にも
角にも真珠湾攻撃は大成功に終わった。しかし、これが日本全土壊滅の序曲であることに
気付いていた人間はどれ程いたことであろう。
 昭和17年4月18日、その予兆は早くも現れた。開戦以来日本軍の連戦連勝で進行してい
た戦局を打開するため、選抜された志願兵によって構成された爆撃隊(司令官の名前から
ドーリットル爆撃隊と呼ばれた)の16機のB25が航空母艦ホーネットを飛び立ち日本本土
初空襲を決行した(東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸)。
 日清、日露戦争を通じて日本国民は国内にいれば生命の危険を感じることはなかった。
だが、技術の革新と共に、もはやそんな考えは通用しなくなっていたのだ。初空襲による
死傷者はおよそ450人。日本軍部は当初敵機9機を撃墜したと発表したが、翌日の新聞紙
上で結局撃墜はゼロであったと訂正する大失態を演じた。
 これにより日本軍部の面目は丸つぶれとなった。一方、日本本土空襲の成功にアメリカ
の戦意は大いに高揚した。航空母艦ホーネットは日本の哨戒線ぎりぎりまで接近し、B25
を飛び立たせることで日本本土初空襲を成功に導いていた。
 アメリカによる本土爆撃に驚いた日本軍部は、当初ソロモン方面で必要としていた航空
兵力を本土防衛のために割かなければならなくなった。
 太平洋に於ける哨戒線を拡げようとしたミッドウェー海戦では、日本海軍は米機動部隊
の待ち伏せに会い、手痛い打撃を受け、ほとんど再起不能に追い込まれた。
 この時までに、アメリカは日本の暗号通信をすべて解読することに成功しており、日本
側の情報はすべて筒抜けであった。この機を境に、日米の形勢は次第に逆転していった。
 ドーリットル爆撃隊による初空襲の後、およそ2年の間、アメリカ軍機は日本本土上空
に姿を現すことはなかった。しかし、アメリカはこの間に着々と日本壊滅へ向けて準備を
進めていたのであった。

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