7. B29胎動--中国からの対日爆撃
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1943年11月、エジプト・カイロで開かれた米英中三国首脳会議に於いて、「日本打破
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への全計画」が承認されると共に、B29を日本に向けた戦略爆撃機として専用することが
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正式に決定された。B29をインドへ配備することもこの時に決まった。
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初めてのB29実戦部隊として第58と第73航空団が編制された。2つの航空団は第20爆撃機
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集団(XX Bomber Command)の指揮下に置かれていたが、これらを統轄するために1944年
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4月、統合幕僚長会議直属部隊として第20航空軍(Twentieth Air Force)が新たに誕生した。
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第20航空軍が創設された時、中国はアメリカに対して日本攻撃用に中国本土内に基地を
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提供した。これを受けて、第20爆撃機集団は第58航空団を引き連れて中国、ビルマ、イン
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ド(CBI)戦域に展開することになった。
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戦略は次々と決定されていったが、肝心のB29の供給状況は遅々として進まなかった。
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1944年1月初旬、97機のB29が組立を終え、整備へまわされた。ボーイング社が行った
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テスト飛行では数々の問題点が見つかった。これらをすべて解決してB29をインドへ送る
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にはどう見ても5月に入ってからになる状況であった。
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何としても3月か4月にはB29をインドへ飛び立たせたいと考えた司令部は、B29関連施設
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や人員をカンサス州にある4つの基地に集め、24時間態勢で作業を進めた。その結果、4月
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中にはカルカッタの西、カラグプールにおよそ150機のB29を配備することが出来た。
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第20爆撃機集団はカラグプールを本拠として、中国四川省の成都に前進基地を置いた。
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カラグプール、成都間の補給は、ヒマラヤ山脈を越えて行われた。何故このような面倒な
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ことをしたかというと、成都に基地機能を集約してしまえば、万が一中国本土に展開する
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日本軍の攻撃を受けた場合大きな損害を被る可能性があった。その危険性を回避するため
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にインドと中国に基地を分散させたのである。
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この制約のために、第20爆撃機集団の活動はB29の能力を十分に発揮させるまでには至ら
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なかった。カラグプールから成都までの補給路は気象条件が悪く、成都まで燃料を運ぶ
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B29は危険を冒さなければならなかった。前線基地の整備修理施設は不十分で、空輸され
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る燃料も限度があったため、成都からの攻撃規模は小さく、回数も少なかった。
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このような条件下で、1944年6月5日、バンコクに対して成都からの最初の攻撃が加えら
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れた。バンコクへの攻撃はほんの小手調べであった。
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成都に配備されたB29は初期に生産されたもので、その性能は未だに安定してはいなか
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った。第58航空団のパイロット達はアメリカ陸軍航空軍の中でも優秀な者が配属されて
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いた。彼らは、まだ性能不安定なB29を操り、実戦を通して得られた貴重なデータをB29
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の改良のために提供した。
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1944年6月15日未明、日本にとって運命の日がやってきた。成都を飛び立った75機の
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B29のうちの47機が北九州の日本製鉄八幡製鉄所を爆撃したのである。
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これが最初のB29による日本本土爆撃であった。この作戦には従軍カメラマンや新聞記者
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10数人が同行していた。彼らの報道に米国内は沸き返った。
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成都からの爆撃作戦は、これ以後およそ10ヶ月の間、昼間高々度精密編隊爆撃によって実
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行された。
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アメリカによる日本本土空爆は、正確に言うと、これが2度目となる。歴史に残る第1回
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目の爆撃は日米開戦の僅か4ヶ月後に決行されていた。
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