6. アメリカの対日研究
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日本が真珠湾を攻撃するかなり以前からアメリカは1923年に起きた関東大震災に重大
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な関心を寄せていた。この災害で発生した火災は、日本家屋の火に対する脆弱性をアメリ
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カに充分認識させた。
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当時のアメリカは、日本を理想的な焼夷弾攻撃の目標として見なしていたが、人道的立場
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からこの種の戦争は禁じられているとした。
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アメリカが現実問題として対日爆撃に重大な関心を持つようになったのは、1943年1月
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にカサブランカで開かれた連合国首脳会議辺りからであったと言われている。
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ルーズベルトはこの席上、日本本土空襲について触れ、インドおよび中国に基地を作るこ
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とを提案した。
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しかし、時期尚早としてこの提案は正式決定されることはなかった。依然ヨーロッパ戦
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線に連合軍の勢力の大半を投入しなければならなかったからである。
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アメリカの日本分析はなおも継続されていた。1943年2月には、外国経済局が日本の都
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市に対する焼夷空襲についての報告書を出している。この報告書では、ドイツがイギリス
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に与えた焼夷弾攻撃の結果を分析すると共に、戦前日本で営業していたイギリスの保険会
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社が持つ資料を基に、「日本の都市は火災に対して極めて脆弱であり、労働者の住宅を焼
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き払うことで日本経済は大混乱を引き起こす」と結論づけていた。
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時を移さず、アメリカ陸軍航空軍情報部は、日本本土および朝鮮、満州に於ける主要爆
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撃目標を調査した。爆撃目標の細部にわたる検討は、作戦分析官委員会に委ねられた。こ
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の委員会は軍事専門家と民間人からなり、ヨーロッパ戦線でのドイツ経済の分析および爆
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撃目標選定の手腕を高く評価されていた。しかし、こと日本に関しては事情が異なってい
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た。委員会はあらゆる手を尽くして情報を入手しようと試みたが、収穫はほとんどなかっ
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た。というのも、日本の情報は軍部による管制によって外部には全く漏れ出すことはなか
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ったからである。半年以上にわたる委員会の懸命な努力により得られた結論は、「市街地
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への大量焼夷弾攻撃が効果的であり、気象条件を考慮すれば、攻撃は12月から5月にかけ
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て行うべきである」というものであった。
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作戦分析委員会の活動と時をほぼ同じくして、対日本用の焼夷弾M69の研究開発が進行
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中だった。まず、ユタ州ソルトレークシティの南西70マイルのダグウェイ試爆場に実験用
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住宅が建設された。最良の実験結果を得るため、建築材料、家屋の構造、家具など細部に
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わたって寸分違わぬ家を6週間かけて再現した。出来上がったのはドイツの住宅6軒と日本
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の2階建て長屋12軒。仕上がりは完璧だった。これらの住宅を使って実験が繰り返された。
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M69は模擬日本家屋に対して抽んでた性能を発揮した。
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1943年10月に出された情報部焼夷弾レポートによれば、「日本の都市には3階以上の
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高層建築は少なく、大部分は低層であり、それらは互いに密集している。関東大震災で大
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規模な火災が発生したにもかかわらず、依然として木造建築が主流であって密集状態も変
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化はなかった。東京では全建物の9割が燃えやすい木造で、他の都市でも状況は同じであ
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る。東京、大阪、名古屋、神戸では住宅地に隣接して工場が存在する。このような地域で
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は焼夷弾による延焼率は高く、爆撃目標としては最適である」と報告している。
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いずれの報告書も結論として日本は焼夷弾攻撃に対して非常に脆いことを指摘していた
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が、その根拠は戦前の間接的な資料に基づいたものでしかなかった。
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