1. 伝説誕生

 あともう少しで日付が変わろうとしていた昭和20年7月3日深夜、姫路市内に空襲警報の
サイレンが鳴り響いた。
マリアナ諸島の小島テニアンを飛び立ったB29が姫路市街地上空に飛来したのだった。
その数は優に100機を越えていた。姫路市民の脳裏には6月22日の川西航空機姫路製作所
爆撃時の恐怖が未だに生々しくこびり付いて離れていなかった。
 燈火管制のため、姫路の街は暗闇に包まれていた。人々は防空壕に身を潜め、じっと息
を殺して身構えている。今までに何度か姫路近辺をただ通り過ぎるだけのB29がいたため、
今回もそうであるようにと皆は祈る気持ちで一杯であった。
 突然、姫路城の南、姫路駅付近の上空で照明弾が炸裂し、一気に駅周辺を照らし出した。
今まで静まり返っていた街が急にざわめきたち始めた。
B29は二つの爆弾倉を開き、情け容赦なく焼夷弾をまき散らす。
地上に落下した焼夷弾は、内部に詰め込まれていた油脂(ナパーム剤)を吐き出し、辺り
を炎で焼き尽くす。絶望的な火災が市街地のあちこちで発生している。
日頃訓練していた消火活動など全く役に立たなかった。燃え上がる街の炎によってB29の
機体がくっきりと夜空に浮かび上がる中を、人々は続々と城南練兵場をめざして避難して
行った。瞬く間に練兵場は数千人の避難者で立錐の余地がない程になっていった。
 頼みの綱であった地上からの対空砲火は全く無力で、正にB29のやりたい放題であった。
B29は次々とやって来ては焼夷弾を投下し、また去っていくという攻撃を繰り返した後、
マリアナ基地へ帰投して行った。
 夜が明けてうっすらと辺りの様子がわかって来る頃にやっと空襲警報は解除された。
この空襲で市街地の63.3%が破壊され、6月22日の空襲と合わせると姫路市の73.5%が焼
き払われた。
 当然姫路城も焼け落ちてしまったものと市民は思っていた。
しかし、皆が目にした光景は信じがたいものであった。まだ余燼くすぶり続ける中、姫路
城はまるで何事もなかったように燦然とその姿を現していた。
 姫路城は焼け残った。いや、これは正確な表現ではない。姫路城は焼けなかったと言っ
たほうが正しいだろう。B29の焼夷空襲によって市街地の大半は焼き払われてしまったと
いうのに姫路城の周辺では焼夷弾は城を避けるように落ちていた。それは、あたかも何者
かの意志が働いたかのようであった。
 姫路城が戦禍を免れた理由について、姫路市民の間からは、アメリカが何らかの配慮を
したのではないかという声が聞こえるが、これは本当なのだろうか?姫路城を残すために
意識的に城には焼夷弾を投下しなかったのだと思っている人達が現に存在している。
 この説の元をたどれば、京都や奈良が大きな空襲を受けなかったのはアメリカが文化財
に配慮して爆撃を控えたという話とルーツは一緒であることが容易に想像できる。
言われてみれば、京都と奈良には歴史的文化財が集中していることは事実であるし、二
つの都市が大規模な空襲を受けなかったというのも間違ってはいない。世界文化遺産に選
ばれるほどの名城である姫路城をアメリカが残そうとしたと言う説も何やら本当らしく聞
こえてくる。姫路市街地は空襲により壊滅。だが、城には炎の魔の手は届かなかった。
 この劇的な対比がいっそうこの説の信憑性を増してくるように思える。でも、我々はこ
の説を鵜呑みにしていいのだろうか?何ら疑いの余地はないのだろうか?

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