17. 幻の文化財保護
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まずは最もよく知られている「アメリカは文化財に配慮して京都、奈良を爆撃しなかっ
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た」という説(ここでは文化財爆撃除外説とでも名付けておく)の真相はどうだったのか。
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調査過程を紹介しながらの話になるが少しの間付き合って頂こう。
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ここに短い文章がある。見出しは”文化施設の爆撃制限”とある。
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『1945年5月、アメリカ陸軍動員部隊司令部は、”戦争地域における美術および歴史遺
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跡の保護救済に関する委員会”が作成した”ウォーナー・リスト”を基本にしたらしい
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文化財のリストを、軍将官に配布した。六大都市に全面焼夷弾攻撃を開始して二ヶ月後、
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地方都市への本格爆撃開始の一ヶ月前だから、これがどこまで効力を発揮したか不明だ
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が、少なくともヨーロッパ同様、日本の古文化財の保護にも意を払っていたことが伺える。
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アメリカは開戦までに、日本本土の必要な情報は全部スパイしていた上に、偵察撮影によ
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って詳細な複写地図を作成しており、このリストにも東京、奈良、近畿地方には特別なリ
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ストと地図をつけてあり、皇居や帝国ホテルなどの由緒ある建造物を始め、各地方都市
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の博物館、美術館、神社、仏閣、大学や私設コレクションまでも含んでいる。』
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(TARGET TOKYO 日本大空襲より)
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ここに文化財爆撃除外説を解明するための2つのキーワードがあることに気づく。
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その2つのキーワードとは”戦争地域における美術および歴史遺跡の保護救済に関する委
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員会”と”ウォーナー・リスト”である。この一文からもわかるように”ウォーナー・リ
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スト”とは日本の文化財についてのリストのようである。現時点ではこれぐらいしか情報
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が得られない。そこでいろいろな書籍を調べていっているうちに新たな手掛かりとなる短
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い文章を見つけた。それは『東洋美術学者ウォーナーがルーズベルトに空襲回避を進言し
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た』というものである。ウォーナーとは人名で、どうやらこの学者が作成したリストが”
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ウォーナー・リスト”と呼ばれているようだ。
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さらに情報を求めて書籍を探していくと「日本の空襲--十 補巻 資料編」にウォーナ
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ーに関する具体的な記述を見つけることが出来た。京都・奈良に大規模空襲がなかった理
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由として次のように述べている。
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『ウォーナー博士は当時、ハーバード大学附属美術館フォッグ・ミュージアムの東洋部長
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だった。戦前に来日、奈良に滞在して古美術を研究。日本研究の第一人者として知られて
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いた。夫人のローレーヌさんが、当時のルーズベルト大統領のメイだった関係から、「京
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都、奈良の古文化財は、人類の貴重な財産である」と大統領に強く進言した。この”忠告”
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が京都、奈良を爆撃のスケジュールからはずさせたのであった。』
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だんだんとウォーナーなる人物が浮き彫りにされてきたようだ。その後の調べで判明し
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た事と合わせて情報をまとめてみよう。
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ランドン・ウォーナー(Langdon Warner. 1881-1955)
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アメリカ・マサチューセッツ州ケンブリッジに生まれる。ハーバード大学卒業後、第二次
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世界大戦以前に二回来日している。最初は1907年から1909年の二年間滞在し、岡倉天心
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のもとで横山大観らと共に日本美術を学んだ。二度目の来日は1931年で、この時は奈良で
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仏教彫刻を学んでいる。1923年から母校ハーバード大学で教壇に立ち、その後ハーバード
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大学附属フォッグ美術館東洋部長を務めた。ウォーナーの妻ロレーヌはセオドア・ルーズ
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ベルト(第二十六代米国大統領)の姪である。
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文化財爆撃除外説は日本人の間に漠然ではあるが広く知られているようである。因みに
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私の両親に姫路城が無事だったのはなぜか?と聞いたところ、その答えは案の定『姫路城
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と京都はアメリカがわざと爆撃しなかった』だった。姫路城について聞いただけなのに、
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京都のことにまで触れた答えを返してきた。こんな具合に文化財爆撃除外説は広く「日本
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人の常識」として知れ渡っている。
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これ程までにこの「常識」が民衆に流布されるきっかけとなったのは、朝日新聞がウォ
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ーナーについて大きく報道したためである。(昭和二十年十一月十一日付 東京版)
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これを機に「常識」は日本国中の一般大衆に広まって行ったのである。また、最近(1992)
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発見された志賀直哉のはがきに「常識」の原型となったと見られる次のような記述がある
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ことが判明した。
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『噂だから事実かどうか分かりませんが 博物館の役人が奈良と京都は爆撃せぬようにと
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トルーマンに進言したら、約束は出来ぬが考慮には入れて置こうといった由、敵ながら文
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化を尊重する事 感心、これが本統なら大した事、恐らくボストンのウォナーだろうと思
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います。』以下略。
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これで戦争の真っ最中にも関わらず、交戦国のアメリカが日本の文化財に配慮している
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のではないかという噂話が存在していたことが判る。今日では京都にも爆撃があったこと
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は周知の事実だが、当時は空襲(昭和20年1月16日深夜)の被害(死者41名、負傷者50
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名、家屋全壊29戸、半壊112戸、一部損壊175戸)は秘密にされ、翌日の新聞には損害軽
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微とだけしか載らなかった。そればかりか京都爆撃は誤爆だったという根拠のないデマま
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でが流れたという。爆撃され死者まで出ていながら、アメリカを擁護するような説が世間
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に広まったことは、誠に奇妙なことと言わざるを得ない。
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戦後ウォーナーが来日した時、彼は日本国中から大歓迎を受ける。マスコミは競って彼
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を取材した。話題の焦点はもちろんウォーナーがルーズベルトに京都の爆撃回避を進言し
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たのかということだった。
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マスコミは彼の口からイエスという言葉を期待していたが、意に反して当の本人は「日
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本人の常識」を否定し続けていた。皮肉なことに彼が否定すればするほど、日本人は彼の
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言動を「謙譲の美徳」として受け止め、ますますウォーナーを英雄視するようになって行
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った。
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1955年6月9日、ウォーナーが死去すると各新聞社はこぞって哀悼の意を表明し、奈良
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と鎌倉で行われた追悼式にはそれぞれ各界を代表する著名人らが多数参列した。
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日本政府は、ウォーナーに外国人への最高の栄誉である勲二等瑞宝章を与えることを決
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定する。
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ここに至って「日本人の常識」は完全に定着した。これ程までに日本全国に浸透した理
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由は一体何であろうか?実は、ウォーナーが作成した日本の文化財に関するリスト(ウォ
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ーナー・リスト)が間違いなく実在しているからである。戦後50年以上経た現在において
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もなお語り継がれている「常識」の根拠ともなっている”ウォーナー・リスト”に言及す
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る前に、ここでもうひとつのキーワード”戦争地域における美術および歴史遺跡の保護救
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済に関する委員会”について見てみよう。
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同委員会の委員長はアメリカ大審院判事ロバーツ氏(Owen J. Roberts)で、彼の名前を
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とって通称”ロバーツ委員会”と呼ばれた。
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1943年8月20日に設立されたロバーツ委員会は、当初「ヨーロッパに於ける美術的、
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歴史的遺跡の保護救済に関するアメリカ委員会」という名で結成されたが、後に「戦争地
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域に於ける美術的、歴史的遺跡の保護救済に関するアメリカ委員会」という名称に変更さ
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れた。(American Commission for the Protection and Salvage of Artistic and
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Historic Monuments in War Areas)
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ロバーツ委員会の設立目的は、戦争中は、「連合軍占領地域にある文化財の保護」であ
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り、戦闘終了後は、「枢軸国が略奪した文化財を返還させる」ことであった。もし、破壊
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や紛失により文化財の返還が不可能である場合には、「枢軸国から等価値の文化財をもっ
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て弁償させる」。文化財返還を円滑にするために、「枢軸国によって略奪された文化財の
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リストを作成する」。また枢軸国が文化財を返還不可能の場合、等価値の文化財をもって
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弁償させるために、「枢軸国所有の文化財のリストを作成する」ことであった。
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ロバーツ委員会の当初の名称を見ても分かるように、委員会はヨーロッパ戦線に主眼を
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置いていた。後の名称変更によってアジア地域も含まれることになったが、委員会の仕事
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である文化財の保護およびリスト作成に携わる人員の地域別配分は、地中海戦線に37人、
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ヨーロッパ戦線に186人、極東戦線にはわずか7人であった。
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ウォーナーはロバーツ委員会のメンバーの一人として極東戦線を担当することになった。
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委員会の構成人員は圧倒的にヨーロッパ文化の専門家たちであったため、ウォーナーは日
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本だけでなく、中国、朝鮮、タイをも受け持つようになった。
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次に、実際の委員会の活動はどのようであったのか見てみよう。
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1. まず最初にアメリカ軍兵士の中から博物館員や美術館員のように文化財について知識
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を有する者たちを選び出した。
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2. 連合国側および枢軸国側の国別文化財リストを作り、それぞれに地図を添付し、アメ
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リカ陸軍省に提出した。
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3. 枢軸国によって略奪された文化財を返還するためのガイドラインを国務省および陸軍
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省と協議して作成した。
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4. 終戦後、ヨーロッパ並びに極東へ文化財の専門家を派遣し、略奪の有無や破損の状態
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を視察した。
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略奪された文化財を発見した時に取る具体的手順は、まず文化財の状態を確認するため
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の調査用員が召集される。調査が終われば文化財を安全な場所へ移し、返還されるまでの
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間保管しておく。つまり、連合軍占領地域に於ける文化財の保護とは、文化財を移転し、
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保管する作業のことを指していたのだ。
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ロバーツ委員会の主な活動は、文化財が略奪または破壊されてから初めて発動するもの
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であり、積極的に文化財を戦火から守るということではなかったのである。
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それではいよいよウォーナー・リストの中身を見てみることにしよう。リストの正式名
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称は、ARMY SERVICE FORCES MANUAL,M354-17A,CIVIL AFFAIRS HANDBOOK,
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JAPAN,SECTION 17A:CULTURAL INSTITUTIONS
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翻訳すると「陸軍動員部隊便覧(M354-17A) 民事ハンドブック 日本 17A:文化施設」
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となる。1944年7月24日に発行された初版(M354-17)の改訂版として1945年5月31日
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に発行されている。
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主要な日本の文化施設および文化財の一覧表で、全部で31ページある。その内容は、日
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本の歴史の解説、奈良、京都などの歴史的文化財が多い地域に関する記述がある。
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文化財や文化施設(個人の古美術コレクションも含む)は、それぞれの重要度に応じて
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4つのクラス(無印、星1つ、星2つ、星3つ)に分かれている。
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また、北海道を除く本州と九州の全体図と大阪、京都、奈良、比叡山、高野山を含む広
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域図と京都、奈良、東京の略図の計5枚の地図があり、それぞれに文化財などの所在地が
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記載されている。
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もう少し詳しく中を見てみると東大寺(大仏殿、正倉院、法華堂)、伊勢神宮、出雲大
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社本殿、名古屋城天守閣、同志社大学、東京帝国大学、大阪市立図書館、等々。
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一応有名どころはリストに記載されている。姫路城については次のように記述している。
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姫路城、別名”白鷺城”。1340年。大阪の西。秀吉によって1573年-91年にかけて再建
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された。保存状態良好。現在は陸軍師団司令部である。
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(Himeji or "Snowy Heron" Castle, 1340, W of Osaka restored 1573-91; by
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Hideyoshi; well-preserved; now divisional headquarters of the Army.)
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蛇足ではあるが、姫路城は無印である。
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このウォーナー・リストは何も特別なリストではなく、ロバーツ委員会が作成した40の
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リストのひとつに過ぎなかった。さらに付け加えると、ウォーナー・リストには15の城
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(弘前城、青葉城、大垣城、名古屋城、福山城、岡山城、姫路城、広島城、松山城、高知
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城、宇和島城、熊本城、首里城、桃山城、大阪城)が記載されているが、このうち八つの
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城が戦災で焼失している。このことからもウォーナー・リストが爆撃回避のためのリスト
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でなかったことが分かるだろう。
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ロバーツ委員会の幻影に惑わされている日本人が犯している大きな間違いは、ヨーロッ
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パのすべての文化財が無条件に保護されていたと思い込んでいることである。また、その
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自分勝手な思い込みから、何の疑いもなく、アメリカは日本の文化財保護にも力を注いで
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いたと短絡的に解釈している。実際には、イタリアに於いてでさえ、宗教的および芸術的
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に重要な建物が意図的な爆撃によって完全に破壊されたこともあったことを知るべきであ
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ろう。
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その顕著な例として、モンテ・カシーノ修道院を挙げることが出来る。連合軍はこの修
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道院を爆撃機による攻撃で廃墟にしてしまった。ドイツ軍がモンテ・カシーノ修道院を拠
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点としているというのがその理由であった。
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修道院破壊にはバチカンからの猛烈な抗議とドイツの逆宣伝を受けたが、戦争遂行は文
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化財保護より優先されるという格好の実例である。
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もうひとつ、日本人が見落としている点は、いくら敵味方に分かれて戦っていても、根
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底には同じ宗教的基盤が存在していたという事実である。移民の国であるアメリカでは交
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戦国であるドイツ、イタリアを故郷に持つ指導的立場にいる軍幹部も多くいた。彼らは、
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ナチズムやファシズムを憎んではいたが、心の底ではある種の愛着心を両国に対して持っ
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ていた。これには、ドイツやイタリアがアメリカの国土を直接攻撃したことがなかったこ
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とも大きく影響していた。
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一方、アメリカが全く異なる文化を持つ日本に対してどのような感情を持っていたのか。
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極東のちっぽけな島国、日本に対するイメージは、何か得体の知れない東洋人の国という
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のが関の山であった。ましてや、日本はアメリカ建国以来唯一国土を直接攻撃した国であ
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り、卑怯にも不意打ちという手段を使ったという強烈なイメージがアメリカ国民の間にも
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広がっていた。リメンバーパールハーバーを合言葉に、ドイツ降伏後の日本に対するアメ
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リカの攻撃は、ヨーロッパ戦線ではあれほど逡巡していた都市に対する無差別爆撃を無条
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件に採用するようになる。ドイツ降伏の三ヶ月前に実行されたドレスデン爆撃はアメリカ
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が無差別爆撃に手を染めるきっかけともなった。
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