14. 焼夷空襲--都市を焼き尽くせ

 1945年4月中旬、大規模焼夷弾攻撃を再び実行するのに充分な量の焼夷弾の補充が完了
した。再開された夜間焼夷空襲の最初の標的として、4月14日未明に東京北部、現在の北
区が襲われた。翌日の深夜には東京南部蒲田地区から川崎市にかけて空襲があり、2晩合
わせて計3,864トンの焼夷弾が投下され、20.8平方マイルが焼失した。
 4月15日の空襲の後、夜間焼夷空襲は再び中断された。
 太平洋戦争中、日本の国土で唯一地上戦が繰り広げられた場所は沖縄であった。アメリ
カ軍による沖縄侵攻作戦が開始されたのは、1945年4月1日のことである。日本側は、ア
メリカ軍に対して菊水作戦をもって反撃を試みた。
 菊水作戦とは、爆弾を搭載した飛行機もろとも自らの命を犠牲にしてアメリカの艦船に
突入していく肉弾攻撃を言う。4月6日に菊水一号が発動され、12日に菊水二号、16日に
菊水三号と続いた。
 アメリカ側はこの体当たり攻撃を恐れ、第21爆撃機集団に命じて特攻機の発進基地を攻
撃させることにした。
 B29による沖縄侵攻作戦支援は4月17日から5月11日までの1ヶ月足らずの間続いた。
この期間のB29爆撃部隊の戦略的航空作戦の75%は沖縄侵攻作戦支援のために振り向けら
れた。
 一方、残されたB29によって日本の主要都市の航空写真を撮るという空中偵察作戦が実
施されていた。ちょうど同じ頃、1945年3月30日をもって活動を停止した第20爆撃機集
団に所属していた第58航空団が5月1日付けでマリアナ基地への移駐を完了した。
 5月11日をもって本来の任務に戻ったB29は、5月14日早朝に480機が名古屋北部市街
地へ、5月17日未明には466機が名古屋南部市街地へ大規模焼夷空襲を決行した。
 名古屋城は14日の攻撃で炎に包まれ、その姿を消していった。同様に名古屋の名前も大
都市焼夷空襲のリストから消されていった。
再開された空襲の規模は以前と比べると格段に大きくなっていた。東京に対しては、5月
24日未明に南部市街地、翌25日深夜から26日未明にかけて都心への空襲があった。東京
もこの時リストから除外された。
 5月29日には白昼堂々と横浜と川崎が襲われ、6月1日大阪市街地、6月5日神戸市街地、
6月7日大阪市街地、6月15日大阪・尼崎市街地へすべて白昼焼夷空襲が決行され、それぞ
れの都市の名前がリストから消えていった。
 以上9回の攻撃によって投下された焼夷弾の量は27,943トンであった。アメリカはこれ
ら7都市の市街地面積の合計を264.4平方マイルと計算していた。
空襲によって焼失した面積は、空襲後の写真偵察によって106.32平方マイルとはじき出
していたから、7都市の面積焼夷率の平均は40.2%になる。東京と神戸を除けば、他の都
市は焼失した面積よりも焼け残った面積の方が広い。しかし、これは単なる錯覚に過ぎな
い。いくら焼けずに済んだと言っても、それはまだら模様にしか残っていなくて、それら
をかき集めたら数字のうえでは広くなるだけの話である。このような状態では都市機能が
満足に働くことは期待できない。アメリカ側にしても残りを焼き尽くすために焼夷弾を投
下したところで燃え広がるはずがないことを知っていたから、それ以上の攻撃はしなかっ
たというわけである。
 ところで、アメリカは日本の都市工業地域への大量焼夷弾攻撃をどのように正当化しよ
うとしたのだろう。アメリカの言い分は次のようなものだった。
『日本の工業は、少人数を雇って重要な組立部品を生産している数千の零細下請け業者や
小さな工場の協同生産に大きく依存していた。これら下請け業者は日本全国の都市にくま
なく存在しており、日本の軍需工場や国民経済の重要物資を生産していた大工場は下請け
業者の存在なくしては成り立たない状況であった。そこで、日本工業の源泉である零細下
請け業者達を壊滅に追い込めば、小工場や大工場に大打撃を与え得ることが容易に予見で
きた。日本の都市工業地域は木造建築物が軒を連ねて建っており、火災には極めて脆かっ
た。この地域に存在する零細下請け業者を一掃するには、広範囲な焼夷弾攻撃による破壊
以外にはなく、決して一般市民を無差別に爆撃することが目的ではなかった。』
 これは詭弁以外の何物でもないことは明らかである。アメリカはヨーロッパ戦線でいや
と言うほど思い知らされていた。精密爆撃でさえ一般市民の犠牲者が出ることは防ぎよう
がないことを。ましてや、燃えやすい日本家屋に火を放てばどうなるか、その結果は誰に
でも想像できよう。これは未必の故意などではなく、明らかな故意であり、アメリカの言
い分は単なる言い逃れに過ぎなかった。
 日本の7大都市が壊滅に追い込まれた結果、数十万の市民が死傷したり、家や職を失っ
た。既に大きな負担を抱え込んでいた日本政府や地方当局には、さらなる課題として住宅、
医療、食料問題が加わった。残された中小都市工業地域は日本にとって重要な生命線であ
り、アメリカにとっては日本を降伏に追い込むため、是が非でも攻撃しなければならない
目標であった。
 1945年6月1日の段階で、マリアナ基地のB29は700機以上を数え、これらをもってす
れば残存した中小都市工業地域は3ヵ月以内に完全に破壊することが可能であると予想され
た。天候が良ければ重要工場への昼間精密爆撃、そうでない場合はレーダーによる都市工
業地域への焼夷弾攻撃を加えるという計画の下、兵力の70%から80%をレーダー焼夷弾攻
撃に向けることにした。
 6月17日、マリアナ基地の4航空団へ任務が与えられた。それは、1つの航空団につき1
つの都市を攻撃目標として割り当て、一晩に4つの都市を同時に焼き払っていくという新
作戦の開始であった。
 6月上旬といえば日本上空は梅雨による雲がそろそろ発生して視界が悪くなり始める時
期である。また、B29にとって今までの目標であった大都市とは違い中小都市への攻撃は
初めてであった。大都市ならば少々投弾地点がそれても火災は容易に広がっていったが、
それよりも小さい目標になると狙い通りに火災が発生するかどうかわからなかった。
 そこで第21爆撃機集団の司令部はすべての航空団に対して作戦を成功させるために最大
限の努力を要求した。最初のうちは全くの手探り状態であったが、徐々に搭乗員達も慣れ
ていった。
 司令部はこの新作戦を進める価値はあると判断し、中小都市工業地域への攻撃は終戦日
の8月15日未明まで続いた。これらの攻撃は、殆ど夜間に於いて高度2500m〜4300mを
単独飛行するB29からのレーダー爆撃法によるものであった。各々の爆撃目標に対しては、
1度の攻撃で確実に破壊できるぐらいの充分な量の焼夷弾を投下することが計画された。
 その結果、延べ8,014機のB29によって総量54,184トンの焼夷弾が投下された。攻撃目
標となった中小都市工業地域に存在する58都市のうち52都市が完全に破壊、6都市が部分
的に破壊された。総焼失面積は76平方マイル。姫路市は52都市の中の一つに含まれていた。

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