11. 精密爆撃から無差別爆撃へ

 第一段階でのB29の対日爆撃は様々な制約から比較的小規模な兵力によるもので、日本
側にもまだ重要拠点の防衛に戦闘機を割り振る余裕があった。とは言え、B29の攻撃は日
本軍部および国民に払い除けられない圧力となって重くのし掛かってきていた。慌ただし
く行われた軍需工場の疎開は、かえって混乱を生じ、生産性の低下を招く結果となった。
 アメリカは実戦を通じて様々な問題に直面した。それ故、期待していたほどの戦果はあ
げられなかったが、数々の戦術的教訓を得た。
 アメリカがヨーロッパ戦線では不首尾に終わった精密爆撃をあえて日本に適用した理由
は、B29の設計思想から来るものであった。
 そもそも、B29は高々度昼間精密爆撃用に開発されたものであった。だから、たとえ戦
術を変更するにしても、まずは徹底的にB29本来の使用法に基づいた攻撃を実践したうえ
でどのようにすればよいか判断することが筋だと考えた。
 案の定、精密爆撃法は日本でもうまくいかなかった。天候の問題だけはアメリカといえ
どもどうすることもできなかった。
 日本についての学習期間ともいうべき第一段階の戦いの中で、アメリカは日本への対処
法を見いだしていった。
 第20航空軍司令部(在ワシントンD.C.)では軍司令官アーノルド大将がこの戦況を見守
っていた。彼はすでに精密爆撃に見切りを付け、大規模焼夷弾攻撃へと心は傾いていた。
 一方、第21爆撃機集団司令官ハンセル准将のもとで実行されていった軍需工場への精密
爆撃はこれといった成果をあげることがなかった。にもかかわらず、ハンセルは最後まで
精密爆撃に固執していた。
 遂に、アーノルドはハンセルを更迭し、後任としてカーチス・ルメイ少将を抜擢した。
ルメイは、ヨーロッパ戦線ではドイツに対する爆撃の指揮をとり、ドイツ都市を廃墟にし
た。その手腕を買われて、CBI戦域の第20爆撃機集団の初代司令官ウォルフェ准将の後が
まとして中国へ赴任していた。ルメイは、今回もまた首になった司令官のかわりとしてア
ーノルドの眼鏡にかなったわけである。いわば、ルメイはアーノルドの秘蔵っ子であった。
 新司令官は、1945年1月20日より第21爆撃機集団の指揮をとっていった。ルメイの頭
の中には日本の都市工業地域への大量焼夷弾爆撃の青写真が出来上がっていたが、それを
実行するにはまだB29の数が不足していた。
 前任者ハンセルのもとでも11月29日に東京市街地に対する小規模夜間焼夷空襲、1945
年1月3日に名古屋への焼夷弾による白昼市街地空襲が戦術的な実験として行われていたが、
ルメイもまた2月4日に神戸、2月25日に東京への白昼焼夷空襲を決行した。25日の空襲は
雪雲のうえからのレーダー爆撃であった。
 これらテスト空襲の結果は、出撃機数の少なさと投下した爆弾量が十分ではなったこと、
それに爆撃高度の気象条件が悪かったため目立った戦果はあがらなかった。ルメイの「実
験」は、第313航空団が2月4日に、第314航空団が2月25日にマリアナから出撃可能とな
ったことに歩調を合わせている。この二つの航空団の肩慣らしの意味もあったようだ。
 日本側の反撃力は、夜間に於いてその能力を十分発揮できないことが予想された。未だ
有能な夜間戦闘機の開発がなされておらず、日本の対空砲火は高度1,500m〜3,700mを
飛ぶB29に対してさえ有効な打撃を与えることはないであろうことが第一段階の攻撃を通
して判明していった。

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